平成8年6月4日、父(慶次)は逝った。満61歳。それはあまりにも早過ぎた。
あれから17年。時のたつのは本当に早い。
昨年6月は17回忌法要を会津柳津の父の生家で行うことが出来た。
父は福島県河沼郡柳津町會津西山温泉にある老沢温泉の二男として生まれた。12人兄弟の2番目。戦時中は浅草の子どもたち約50人が学童疎開でやって来たと聞いた。父が担当していた妹(龍子)は戦時中大なべに落ちて火傷で亡くなった。4歳だった。父が小学校から帰って来るといつも旅館の前の大きな木に登り父の帰りを待っていたという。そんな妹の死は父にとって大きなショックだったに違いない。中学卒業後、親に内緒で名門高校を受験。合格した。父親(私の祖父)の反対を押し切り入学。風呂敷と下駄で通ったと聞いた。弟(叔父)、妹(叔母)たちからは随分慕われていたそうだ。
小学校時代は川口(元郷南小)。中学校は新座(新座二中)。父の転勤で家族はみな苦労した。私はまだよかったが弟(充)は転校で大変だっただろう。朝起きると父はもういない。夜は寝てから帰って来る。働き者の父だった。無口で笑顔も少なかったように思う。酒は本当に大好きな父だった。
父は体調を崩し実家の西山温泉で湯治した。見舞いに行ったとき、孫(長男大輔、二男翔太)を連れて山に遊びに行った。子どもたちは喜んだ。その数か月後逝った。心臓発作。骨を拾ったとき涙が止まらなかったことは忘れられない。
今生きていたら78歳。まだまだいける。一緒に飲みたかった。もっと話をしたかった。きっと天から見ているだろう。大好きな酒を飲みながら。
あれから17年。時のたつのは本当に早い。
昨年6月は17回忌法要を会津柳津の父の生家で行うことが出来た。
父は福島県河沼郡柳津町會津西山温泉にある老沢温泉の二男として生まれた。12人兄弟の2番目。戦時中は浅草の子どもたち約50人が学童疎開でやって来たと聞いた。父が担当していた妹(龍子)は戦時中大なべに落ちて火傷で亡くなった。4歳だった。父が小学校から帰って来るといつも旅館の前の大きな木に登り父の帰りを待っていたという。そんな妹の死は父にとって大きなショックだったに違いない。中学卒業後、親に内緒で名門高校を受験。合格した。父親(私の祖父)の反対を押し切り入学。風呂敷と下駄で通ったと聞いた。弟(叔父)、妹(叔母)たちからは随分慕われていたそうだ。
小学校時代は川口(元郷南小)。中学校は新座(新座二中)。父の転勤で家族はみな苦労した。私はまだよかったが弟(充)は転校で大変だっただろう。朝起きると父はもういない。夜は寝てから帰って来る。働き者の父だった。無口で笑顔も少なかったように思う。酒は本当に大好きな父だった。
父は体調を崩し実家の西山温泉で湯治した。見舞いに行ったとき、孫(長男大輔、二男翔太)を連れて山に遊びに行った。子どもたちは喜んだ。その数か月後逝った。心臓発作。骨を拾ったとき涙が止まらなかったことは忘れられない。
今生きていたら78歳。まだまだいける。一緒に飲みたかった。もっと話をしたかった。きっと天から見ているだろう。大好きな酒を飲みながら。
残されたものにとって とても寂しい事だけど その分たくましく生きていける。心の支えになっている。
投稿情報: iいちご | 2013/06/08 14:05